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歴史・文化

小酒井不木

大正末期から昭和初期のほんのわずかな時期、まだ黎明期(れいめいき)にあった探偵小説(後の推理小説・ミステリー小説)の世界で活躍した作家の一人に小酒井不木があげられます。
小酒井不木、本名 光次(みつじ)は、明治23年(1890年)10月8日、愛知県海東郡新蟹江村(現海部郡蟹江町)の地主(村長)小酒井半兵衛(こさかいはんべえ)の長男として生まれました。
後に「何の特色もないところに生まれたごくごく平凡な男」と自己評価したのとは裏腹に、彼は幼少の時代から非凡な性質を発揮していきます。

大地主の息子として生まれた不木は「みっさま」と呼ばれて、何事にも特別扱いされ、同年の子どもと遊ぶよりも近くの寺で大人を相手に「地獄極楽物語」を創作し説法していたといわれ、後の作家としての素質の一端が見受けられます。愛知一中、旧制3高卒業後、東京帝国大学医学部へ入学。その後大学院に進んで、生理学・血清学を専攻しました。

大正4年、25歳で海部郡神守村(現津島市)の地主鶴見楽太郎(つるみらくたろう)の娘 久枝(ひさえ)さんと結婚し、東北大学助教授職を拝命し、大正6年にはアメリカ・ヨーロッパへ衛生学研究のため留学する機会を与えられます。この時期にアメリカの探偵小説家エドガー・アラン・ポーやイギリスのコナン・ドイルの作品に接して探偵小説の世界へと傾斜していくこととなります。留学中に持病の結核の悪化により帰国し、妻の郷里で療養しながら「学者気質」という随筆を新聞に連載。以後欧米の合理的な探偵小説を紹介することによって、当時の「新青年」編集長森下雨村(もりしたうそん)と交流が始まり、大正13年「真夏の惨劇」以降は、小酒井不木というペンネームで執筆活動を開始します。これ以後多くの同じ探偵小説家との交流も活発となりました。

その一人、後の大作家江戸川乱歩(えどがわらんぽ)との出会いは、大正11年に乱歩が新青年に応募した「二銭銅貨」について、雨村から欧米の翻訳物ではないかとの問い合わせにより乱歩の作品に接して彼を絶賛し推薦文を書いたことから始まります。

まだまだ本格的な探偵小説家が誕生していない時代。探偵小説の将来に不安のある乱歩に探偵小説で生計を立てることを勧めた不木。そして、乱歩も医学研究書の執筆や翻訳活動が中心だった不木に熱心に創作を勧めることとなり、二人の交流は日々深まっていくことになりました。

不木は、当時住んでいた名古屋を舞台とした探偵小説を発表。豊富な医学・科学的な知識と犯罪心理を描写した内容が主で、その実在性から「不健全派」の代表作家として位置付けられました。大正15年発表の「人工心臓」は、日本における最初の純SF小説として名高い作品でもあります。

昭和2年には「竜門党異聞(りゅうもんとういぶん)」が帝国劇場で上演され、11月には不木の提唱により合作組合「耽綺社(たんきしゃ)」を乱歩ら新進作家と結成するなど新たな取り組みも行っています。また、医学者・結核患者としての体験から「闘病術」を出版。患者の立場に立った著作物として当時の大ベストセラーとなりました。

しかし、持病の結核が悪化し、志半ばの昭和4年4月1日惜しまれながら39歳で逝去。死後、不木と交友関係であった江戸川乱歩・岡戸武平(おかどぶへい)らが不木の遺作を編集した「小酒井不木全集」が発刊されました。なお、乱歩・武平らは、かつて不木から受けた恩もあり、遺族が全集の印税で生活が出来るように条件面での交渉などに尽力したとのことです。

小酒井不木資料室
(蟹江町歴史民俗資料館)

小酒井不木生誕地碑
(蟹江町図書館)

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