新選組隊士 佐野七五三之助
新選組隊士 佐野七五三之助
天保5年(1834)尾張国海部郡須成村の神職、寺西伊予守家班(いよのかみいえのり)の嫡子として生まれました。
嘉永3年(1850)父が死去した後の18歳ころに尊王攘夷を志し、名前を佐野七五三之助と改め、故郷須成村を出奔し江戸へ向かいました。
北辰一刀流を学び、元治亜年(1864)30歳のとき、新選組の隊士となり京へ行きました。
慶応3年(1867)新選組総員の幕臣取立に抗議し、新選組からの離脱を企てましたが挫折し、京都守護職邸で仲間3人とともに自刃しました。
ほぼ即死状態だったといわれる状況で、遺体を運ぼうとした新選組隊士に自分ののどに刺さっていた小刀で斬りかかった。驚いたほかの隊士によりわき腹にとどめを刺されたが、屯所に運ばれる途中にも、息絶えたはずの佐野が、縛られていた縄を噛んだといい、隊士たちを仰天させたという壮絶な最後が後世に伝わっています。
新選組隊士として京都 光縁寺に埋葬されました。享年34歳。
明治2年(1869)故郷須成村に伝えられ神葬祭が営まれました。須成天王橋西お墓があります。
辞世の句「二張の弓引かまじと 武士(もののふ)の ただ一筋に 思い切るなり」
また、佐野七五三之助の甥(妹の子)が、第24代内閣総理大臣加藤高明です。
Information
住所 | 愛知県海部郡蟹江町 須成天王橋西 |
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